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毒入りチョコレート事件

寺田寅彦の随筆は考えさせられるものあり、思わず膝を打つような的を射た指摘あり、そうかと思えば文学的情緒も有りでなかなか面白いのですけれど、さすがにそればかり読んでいると疲れてきます。やはり随筆はどこまで行っても随筆でして、小説の代わりにはならないのですよね。

そういうわけで私は、時折小説にうつつを抜かしてしまうのです。で、今日読んでいたのがこちらの作品。読み始めたら夢中になってしまいまして、あっというまに読み終えてしまいました。文庫版で352ページですから、そこそこ長い作品だとは思うのですけれど、よほど面白かったのでしょうね。

毒入りチョコレート事件【新版】 (創元推理文庫)
題名:毒入りチョコレート事件
著者:アントニイ・バークリー

推理物好きの間では、恐らくかなり有名な作品。名作とも言われる一冊で、故に数々の作品の原型になったり、様々な批評が試みられていたりする作品でもあります。一通り読んでみた感想としては、率直に面白い。そして、最終回答が始まるまでは真犯人に気付かせない手際はさすがとしか言いようがありません。

よくある日本人作家のものとは違って証明の論理性に重きを置いているので、それも有難いところです。どうも日本人作家の作品って、受けの良いのは動機の部分でグダグダむだに語りたがる悪癖がありますよね、真実の愛がどうとかアイのカタチがどうとか。正直そういうのは虫酸が走る私ですが、この作品は無駄に語ろうとしないのでいやらしさがなくて良いのです。

この作品を最初に読んだ時、冒頭の事件の提示の時点で私の思い描いたストーリーは、提示される推理の中では最も確実かつ論理的、さらに巧妙に見えた主人公のものとほぼ同一でした。恐らく推理もの慣れしている人だと、彼の構築したような推理は一瞬で頭に浮かぶでしょう。同時に、それを補強する事実の数々もすぐさま指摘出来る筈です。

ところが、この作品はそういった王道推理は先に見せず、あえて馬鹿げているように見える推理案から提示して行きます。それでいて、各々の案は明確に間違った結論を導いているものの、理屈としては筋が通っているように見えるという事を、殊更強調するのですね。実際、それらは明確に全否定できるものではなく、しかし確からしいとも思われない、そういうものばかりです。

大きなヒントが与えられるのは、三番目の語り手の推理のとき。ここで作者は、世間の推理小説家がこぞって用いる、アンフェアな、それでいて実に筋が通っているかのように見える論法を茶化して見せます。ここで主張される重要なヒントは、一言で言ってしまえば「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」ということ。

ところがこれだけ「推理小説的技法」に異議を唱えておいてから、最も推理小説的な主人公の説が提示されます。作者の上手いところは、ここで読者に疑念を起こさせないように、実に良く話が練られているという事。特に提示の順番が上手いですね。読者は次第に確信を深めて興奮して行く主人公のテンションにつられて興奮してしまい、疑問点に気付きにくくされてしまうのです。

現実の司法や事件捜査の話にあまり興味が無い人ならここですっかり騙されるでしょうし、逆に事件捜査に対して多少なり知識のある方は、おやと思われるでしょう。私は後者で、彼が間違いを犯している可能性は全て気付きました。でも普通、小説ではそこはあえて問題にされない部分です。実際、推理小説なんて所詮その程度のものでしょう?

ところがです。この作者は、そんな風に推理小説をなめている読者に対して、痛烈な一撃を見舞うのです。そしてさらに巧妙であるのは、痛烈な一撃がさらに罠になっている、というところ。過ちを指摘しているのは確かなのに、あえて自分もそれと同じ過ちを犯して事実をねじ曲げてみせるのですね。

明らかに間違いを指摘し得たその指摘そのものが、指摘したのと同じ間違いを犯していると気付く人は少ないでしょう。気付いたとして、今度こそ「小説なんてそんなもの」とたかをくくるのではないでしょうか。しかし、それこそが罠なのですね。ここで作者をなめていた人は騙されるでしょうし、そうでない人はピンと来た筈。ちなみに私は、再びまんまと騙されました。

最後の種明かしは作中でも指摘されている通り、立証が困難な点が多いお話です。それでも指摘された点においては全てつじつまが合っており、真実らしく見えます。それまでに提示されて来たそれっぽい推理とどこが違うのかと言えば、単に作中で当事者からそれが事実だと認められている、ということだけ。要するに、作品中の「真実」などというものは、結局その程度のものでしかないのです。

この作品は結局、徹頭徹尾「推理」というものに対しての糾弾になっているのですね。推理小説でありながら、推理小説を手厳しく非難し、その欺瞞性を暴いている。そんな作品であったと思います。名探偵の推理なんていうものが現実に通用すると信じている人にとっては、あまり読みたくない作品でありましょう。同時に、状況証拠が如何に薄弱な証拠であるか、ということを素人にも理解させてくれる作品でもあります。

とはいえ個人的には、幾つか指摘したいところもあるのですよね。例えば、チョコ一個あたりの毒がどうして致死量でないのか、ということ。結論では狙われたのは男女二人ですが、この量では甘いものを好まない男性側は死にません。また、犯人はターゲットと極めて親しい間柄にあったのに、彼がチョコを捨てようとすることを予見出来なかったのも不思議です。

作品中では、予定されていた密会がお流れにならなければ、チョコは予定通りターゲットの手により運ばれた筈と決めつけていますが、どうでしょうか。ターゲットがチョコを捨てようとした理由は「気ぐらいの高さ」だったのですから、そうであれば密会があろうと無かろうと結果は同じである筈。

そこを「偶然」で片付けてしまうのがこの作品なのですが、犯人が「人の心理分析に非常に長けた賢く冷静な人」という設定と矛盾してしまいます。そういう人なら、まずその可能性を考慮するでしょう。私が作者なら、ターゲットを二人ではなく一人に絞るか、さもなくば毒の量を増やしたでしょうね。

他にもちらほら気にかかった部分はありましたが、まぁ作中でも指摘されている通り、モグラたたきをしてもっともらしく見せかけたところで、それは「意図されたルートで筋道が通る」だけの事に過ぎないのです。推理小説を読む以上はそこは大目に見るべきでしょうし、書く側はあまり自分の理論に酔うと恥ずかしいよ、というのが、この作者の言いたかったことなのではないかなと思いました。

一度は読んでみる価値のある、実に興味深く、同時に面白い作品だと思います。

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