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日々の便り

 

天地明察(下)

気がついたら、読み終えていました。読み始めたのは今日の昼休みのことで、昼休みと帰り道の約二時間、そして夕食後の二時間。読み終えるまで、たった四時間のことです。
しかし、本の内容が薄かったという訳ではありません。その密度たるや、高いところならばページ一杯の文字、文字、文字。きっと、活字が苦手な方なら目眩を覚える事でしょう。

天地明察、下巻。上巻に劣らぬ密度、そして面白さでした。あまりに集中して読んでいたもので、読み終えてからしばらくは目の焦点が手元に固定されたままに。手元より先に視線を移しても、ぼんやりとしか見る事ができなかったほどでして。こんなに集中して一気に本を読み進めたのは久しぶりだと思います。

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下巻の内容は、算哲が改暦を志すところからはじまって、途中降り掛かる絶望的な状況を乗り越えて、それを成し遂げるまで。
「絶望的な状況」の中身を書くと重要な出来事のネタバレになってしまうのでやめておきますが、さすがは史実に基づく小説、そう一筋縄では事が運ばないのですね。

上巻と比較してみると、語り口は変わっていないのに、物語の印象が随分変化しています。若々しさがにじみ出ていた上巻に対して、下巻は随分と枯れた雰囲気に。主人公自身が歳をとったというのもありますが、恐らくそれ以上に政治や権力がらみの話が多くなっていることがあるのではないでしょうか。

真っ直ぐさや純粋さ、無垢で無邪気な好奇心。そういった人間の美しさがとかく際立つのが上巻。これに対し、下巻は改革者の苦悩や天才の孤独、凡俗で愚昧な権力者達の醜さなどといった負の側面が、否応無しに際立つ展開になります。

しかし、そんな中にあっても、真っ直ぐな人々の快さは相変わらず健在で。安藤殿は相変わらず格好良いですし、酒井様も素晴らしいですし、とにかく、格好良い男達の姿に痺れる事は請け合いです。上巻でお世話になった建部殿関連のエピソードもあり、涙腺の緩むような話の多いことといったら。

作者の構成の上手さも光ります。下巻を読み進めて行くと、上巻に登場する含みのなさそうなエピソードが、実は下巻への重要な伏線になっていたのだということに幾度も気付かされるのですね。建部殿の夢の話、伊藤殿の夢の話、そして北極出地の初日に目にした、あの予測合戦。よもや、そんなところまで緻密に計算されていようとは。

ただ、ハッピーエンドの物語にしては、胃の重くなる内容でもあったと思います。やはり国家レベルでの何かを成し遂げようと思ったら、まず必要なのは根回しと宣伝戦、そして金と権力の裏付けなのだという事を思い知らされるのがこの下巻。
最終的に算哲の大和歴を日本の暦足らしめたのは暦の正しさではなく、むしろそういった政治力であった、というのがなんともはや。

もちろん、暦が正しいからこその宣伝効果ではあるのですけれど、正しさそのものには、あまり力がないのです。まぁ、政治の世界っていつもそうですよね。
こういう部分はあえて書かずに英雄譚でまとめたがる作家も多いですけれど、冲方さんはそういう作家ではないようですね。そういう現実にシビアなところ、良いのではないでしょうか。

またこの下巻は冒頭から、ときに素晴らしいものと讃えられる当時の精神主義の、無知さに裏打ちされた闇の側面にも容赦なく斬り込みます。

これは算哲や保科公が改革者側であり、そちらから見た物語であるというのも大いにあるでしょう。けれど、歴史的、物理的証拠に照らして振り返るなら、精神主義に傾倒して現実を無視し続けることの害悪は明白であり、弁護の余地はありません。
その種の奇麗事を好む人には些かシビアな内容であるところも、私の大いに好ましく思うところでした。

それにしても、物語の全体を読み終えてつくづく思うのは、やはりこうして活躍する人というのは、人の縁に恵まれているものなのだなということです。
なにしろ人の世の中の事ですから、結局、最後は人なのですよね。

天地明察(上)

どうも性格がひねくれているもので、流行ものには興味があっても手を出し辛いのです。昨年買った数々の書籍の中で、そんな理由で唯一手を付けていなかったのが、この本。ご存知、天地明察でした。

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これは過去に味わった辛酸の数々がそうさせているのですが、しかし、流行っているから良いものとは限らないのと同じくらい、流行っているからといって悪いものとは限らないのですよね。幸いなことにこの本は、私にその事を再確認させてくれるものでした。

一言率直に申し上げまして、面白い。そして、快い。読む事でまるで目が冴えていくかのようなこの感覚と、読後の静かな高揚感、そして爽やかさ。こんな感覚を味わえる作品は、なかなかないと思います。
書評ではこれをみずみずしい文章と表現していますが、なるほど、そのようにも感じられますね。特段凝った言い回しが多用されているわけでも、情景の描写が殊更細かい訳でもないのに、なぜでしょう、不思議と絵が脳裏に浮かぶのです。

文体は無駄に煽らず、むしろ淡々と。まるで静かに歴史を解説するかのような調子です。実際、史実に基づく部分についてはそれと分かるように書かれており、言い回しでこれは実際にあった事なのだと分かるほど。恐らく、あえてそのように意識して書かれているのでしょう。こういうところは、ドキュメンタリーの再現ドラマのようです。

上巻の内容は、主人公が算術絵馬を知るところから、御家老に測地の旅に出ることを命じられ、その任を果たして江戸に帰ったところまで。アクションは一切なく、かといって知略勝負があるでなく。主人公が算術の問題を作ろうとするところは確かに勝負ではありますが、いわゆる勝負ものの乗りではありません。

ところが、その一見地味で何も起こらないかのような出来事の間に、これでもかと言わんばかりのドラマがあるのです。大事件がなくとも、人の心は揺れ動くもの。ときに高揚し、ときに沈み切り、ときに打ちのめされ、また感激に打ち震え。
そういった心の機微を生き生きと鮮明に、押し付けがましくもならずに自然に描く、その文章の見事さと言ったら。

なるほど、主人公が心躍らせて日々を送っているのですから、文章に引き込む力があるなら、読むものの心もまた躍るのが道理。エンターテイメント的な大事件でなくとも、ある人の人生にとっての大事ならば、読み手もまたそれに驚き、思案し、心を動かされて当然なのです。それは自明の理ではあるのですけれど、それでいて、それができる作家はそう多くはありません。

文章が上手い。それも、小憎らしい技術のひけらかしのような上手さではなく、ただ自然に流れ、そこに読み手を巻き込んで行くかのような上手さなのです。これには舌を巻くと同時に、たいそう感激させられました。そう、私はこういう文章が大好きなのです。

この作品の魅力のもうひとつの面は、綿密な調査に裏打ちされた、当時の日本についての豆知識の数々です。なにげに脱線が多く、色々な場面で背景となる世情や習慣の解説がさらりと入るのですが、それでいてこれらが話のペースを乱す事はありません。
御陰で情報量がたいへん多いため、概要を把握した上で読み返しても飽きないのです。

さらに、登場人物達のまたなんと魅力的なことか。とは言っても、いわゆるテンプレート的な変人キャラで受けを狙うのではありません。あくまで史実に基づいてなので、各々の人物もまた極めて重厚。つまりそこに感じる魅力とは、描かれた人物の人間性に対して感じる魅力なのです。そのため、どの人物にもつい肩入れしてしまうのですね。

とりあえずこの巻で最も魅力を感じた人物は、建部殿。いやもう、全て分かった上で読んでなお、涙なしでは居られません。安藤殿の無骨ながら粋な気配りにも痺れますし、伊藤殿の静かな魅力にも惹かれますし・・・この先の展開を考えると、全てを見越した上でまるで碁のように一手一手を打って行く御家老の酒井様の手腕にも圧倒されます。

もし叶うならば、こんな魅力的な人物とお近づきになりたい。その側で生きてみたい。そんな事を思わずには居られない、素晴らしい人物達が次々に登場するのですね。彼等のひとりひとりについて、できることなら冲方先生に物語を書いて頂きたいくらいです。
きっと読み終えた後のこの不思議な充足感は、そんな心地良い登場人物達の御陰なのでしょうね。

なるほど、それは瑞々しい文章。爽やかで心地良く、それでいて胸を打つ。なんともいえない満足感と静かな高揚感を与えてくれる、若々しくて力にあふれた物語です。
歴史小説がお好きな方にも、そうでない方にも。是非一度、読んでみる事をお勧めしたい作品でした。

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