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日々の便り

 

ログ・ホライズン

実は今、結構忙しい身の上なのです。本なんて読んでいる暇があったら、やるべき事をさっさと片付けてしまうべきなのですけれど・・・まぁこういうときにこそ現実逃避してしまうのが人間ってものですよね。そしてこういう場合、あまり高尚なものは現実逃避には向きません。漫画のように短時間で没入出来て、短時間で切り上げても別に問題ないものが最適。

こんなとき、絵よりも活字を好む私にとっては、文字数の多いライトノベルは有難い一服の清涼剤なのです。それに、ラノベって内容も薄っぺらいので紹介で頭を使わなくて済むのも有難いところなのですよ。といっても、別に蔑んでいる訳ではありません。単純に楽しい、深みなんて必要としない娯楽というものも、人間には必要なのではないでしょうか。

そういうわけで、本日はこの作品について少々。

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タイトル:ログ・ホライズン
著者  :橙乃ままれ

内容は、ゲームの世界に閉じ込められた人間達が、与えられた条件の中でどのように「生きるか」というもの。ある種、条件内におかれた人間のシミュレーションのような側面を持ちます。というと、「あぁまたか」と思われる方も多いでしょう。実際、私もそう思っていた人間の一人です。ところが、この作品はよくあるそういった作品とは、全く性質を異にしているのですね。

まずこの作品の美点と言えるのは、その有り得ない事件なり現象なりについて、一切の説明を行っていない事。そもそも説明などするだけ無駄なある種出鱈目な前提なのですから、それは「舞台設定」として割り切ってしまうべきでしょう。ところが、大半の作家はここで屁理屈を捏ね、最悪な場合はその現象なりを物語の主軸に置いてしまうため、のっけから痛々しい稚拙で破綻したこじつけの羅列になりがちです。

ところがこの作家はその轍を踏まず、「原因不明」、「帰還可能性も不明」と現実的な切り捨てを突きつけた上で、その与えられた世界で人がどのように振る舞うのか、というところを描く事に注力します。これはなかなか見る事の出来ない、新しい切り口といえるでしょう。

事件後の全世界的な無気力、自暴自棄の状態から、やがて空しさを解消するためにそれぞれが起こす行動と、その結果より荒んで行く小さなコミュニティ。そんな環境の中で、主人公達は「生きる以外にするべきこと」を探し始めます。

物語の舞台は専ら都市規模で、舞台が小さいのも面白いところ。ほんの小数の精鋭が大軍団相手に斬った張ったを演じて英雄となり、賞賛されるような安い物語ではありません。なにしろ強敵を倒して世界を救ったり、のし上がったりする話ではないのですから。そんな子供っぽい英雄譚ではなく、描かれるのはむしろ社会という面倒くさい代物。

従って、話を作って行くのは武力ではなく、むしろ人間同士の関係と意思なのです。そこにはこじつけの設定が作るありがちな似非リアリティではなく、むしろ対人関係や交渉術、知略、損得勘定と利益分配などといった、人間ならば舞台の如何によらず共通する社会的リアリティが見られます。

そして言うまでもない事ですが、そういったものを描き、それでいて読者の心を掴む作品というのは、数多あるこじつけリアルを大盤振る舞いした痛々しいシリアス系作品より、遥かに難しい事なのですね。上手く描かれた短い交渉シーンの価値は、技術的には、世界を揺り動かす一大スペクタクル長編の数十倍にも匹敵するといえるでしょう。少なくとも、著者に要求される思考力にはそのくらいの開きがあります。

主人公は攻撃の不得意な支援職であり、パーティは腕利きながら決して世界最強の英雄という訳ではありません。しかも主人公達は小集団であり、それだけで社会を動かせるような影響力は持ち合わせていません。このシビアなパワーバランスやハンデも、物語をより一層面白いものにしていると言って良いでしょう。主人公達は常に、どうやったら人を動かせるのかという問題に直面し続ける事になります。これが楽しいのですね。

ただ白状しますと、実は私、一度はこの作品を読むのを挫折していたりします。というのも、先に述べたような痛々しさはないにせよ、それでもやっぱり説明が長いのですよね。私はこういう作品に設定上の合理性なんて有り得ないと思っている人間なので、そういうところが苦痛だったというのがひとつ。もうひとつは、やっぱりこういう作品に対する偏見も大きかったのだと思います。

そんな酷い偏見を取り除いてくれたのは、正月にNHKでやっていたアニメ版の再放送でした。なんとなく見てみたら、思っていたのとは全然違って面白いのです。でもその面白さは、多分最初の二巻くらいはちゃんと読んであげないと分からないのではないでしょうか。そういう意味で、短い時間で作品をダイジェストしてくれるアニメという媒体は、なかなか有難いものでした。

偏見を取り除かれてから改めて読んでみると、文章のテンポもさほど悪い訳ではありません。むしろ、昨今のラノベの中では整っている方なのではないでしょうか。記述内容にちょっとひっかかる矛盾のある部分もある気がしますが、まぁそこはそれ、気にしたら負けという事で。

もちろん作品の魅力は、そういった部分だけではありません。まず何より論理思考を怠らない主人公達には好感が持てますし、その他の主要キャラクターも魅力的な人物ばかりです。また、頭脳派が複数居て、各々得意分野を持っているのも非常に好感が持てるところです。とかく主人公は頭脳か武力のいずれかないし両方で最強にされがちですが、この作品の場合はちゃんと得手不得手があり、人間らしいのですね。

お気に入りはまず、主役級の頭脳派三眼鏡。彼等は頭が回るので、見ていて痛快です。それと、ニャン太班長が大好きですね。料理好きキャラは大抵好きになるのですが、この場合も例に漏れず。しかも最年長というのがポイントが高いところ。どストライクでした。あとは商人ギルドのミチタカさんの暑苦しさが結構好きだったり。人間臭いキャラって良いと思います、はい。

ゲームの中に閉じ込められて・・・なんていう異世界ネタにはもう飽き飽きした、そんなくだらない英雄譚には興味は無い・・・という人にこそ、読んでみて頂きたい作品でした。

日本人の自然観

いやはや、参りました。どういうわけか、会社って定時前になると厄介事を持ち込まれるものなのですよね。しかも原因はお客様ではなくて大体身内というのがどうにもこうにも。御陰で今日は定時前に10分程本気で走り回っていたのですが、終わったら体中がズキズキ痛んで閉口しました。

寝込む前なら吉祥寺まで自転車で二往復してもまだ余裕があったのに、まるで何年も運動していない人になったみたいです。たった半月ちょっとで随分と弱りましたね、これは。まぁこんな事でもない限り、それでも困る事は滅多に無いのですから、サラリーマンが運動不足になりがちなのも無理からぬ事かも知れません。

体の方はそんな具合ではありますが、しかし頭の方は至って明瞭。と、思っているのは私だけかも知れませんが、少なくとも読書は捗ります。今日は、こんな本を読みました。

日本人の自然観
著者:寺田寅彦
初出:1935年(東洋思想)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2510.html
※リンクは青空文庫です

日本の自然の特異性と、その中で暮らす日本人の特性、そして自然との関わり方について論じた作品。やや硬い文体で書かれているため、随筆というよりは論文に近い形ではないかと思います。言うまでもなく寅彦は博物学者でも植物学者でもありませんから、これといって専門的な内容を論じている訳ではありません。あくまで彼の持つ一般的な知識に基づく、日本の自然と文化についての考察です。

まぁそうは言っても書いているのは寺田寅彦ですから、そもそも普通の人よりははるかに博識です。しかもそれなりに資料は調べているようですし、こういった分野の論文も充分に読んだ上での執筆のようですね。参考になった文献等については最後に触れられていますし、作中には他の学者の著述の引用も見られます。

作品はまず、日本の自然の特異性について触れています。自然もののテレビ番組や雑誌がお好きな方ならもう聞き飽きた事実でしょうが、日本の自然環境というのは世界的に見ても極めて稀な特性を数多く持っているのです。諸外国の自然は多くの場合他の国にも類似のそれを見出す事が出来ますが、日本と似た自然は世界中のどこにもないのですね。

というよりも、そもそも「日本の自然」と言った場合にイメージされるであろう幾つかの代表例を挙げるだけで、この狭い国土の中に、通常であれば多くの国を旅しなければお目にかかれないであろう数多の自然環境が混在している事に気付かされる事でしょう。

そのような多様性を実現した要因のひとつとして、寅彦はまず気候に着目しました。そして、その気候の原因となる特殊な地理条件、即ち島嶼であると同時に大陸の周縁であり、その両側を強い海流で挟まれているという条件に注意を向けています。

また、日本人の気質を作る要因として、漂泊生活には向かない複雑な地形条件が挙げられると彼は分析しました。日本の土地では定住、それも小規模な集団での定住を余儀なくされるため、ある土地に対する愛着が生み出されるというのですね。さらに、自然と人間との力関係を決定付ける要素として、天災の大変多い事も挙げられました。次の指摘には、確かに頷かされるのではないでしょうか。

“動かぬもののたとえに引かれるわれわれの足もとの大地が時として大いに震え動く、そういう体験を持ち伝えて来た国民と、そうでない国民とが自然というものに対する観念においてかなりに大きな懸隔を示しても不思議はないわけであろう。”

そう言われてみれば、かの震災の際、パニックに陥る日本人など見掛けませんでしたが、しかし外人さんの茫然自失ぶりはたいへんなものであったといいます。原発事故恐さに逃げた外国人も多いですが、単純に揺れること自体が恐ろしくて逃げたという人も少なからず居たのだとか。

日本の自然は大変に豊かな恵みを与える慈母であると同時に、恐ろしい制裁を加える厳父でもあるのだと寅彦は述べました。それに対して西洋などの自然は、日本のそれに比べるとだいぶ平坦で大人しいものである代わり、恵みもそれほど大きくはないというのですね。その違いが、自然に対する日本人と外国人の態度の違いに現れているという訳です。

これもまたよくいわれる事ですが、日本人にとって自然とは神であり主君であり、人はそれに逆らわず適応して生きるものです。そのため、そもそも日本では人の力で自然を征服しようなどという考えはなかなか起こりませんでした。これに対して西洋では、主人は人間であって自然は征服の対象なのですね。このことは日本人に独自の知恵を与える代わり、西洋的な科学の発展は妨げるものとなりました。寅彦は次のように指摘しています。

“その結果として、自然の充分な恩恵を甘受すると同時に自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を集収し蓄積することをつとめて来た。この民族的な知恵もたしかに一種のワイスハイトであり学問である。しかし、分析的な科学とは類型を異にした学問である。”

寅彦は次に、日本人の衣食住に着目しました。常に新鮮な食材を手に入れる事が出来、そして季節による食材の多様な変化があってこその和食文化であるという指摘も、現在ではよく聞く話ですね。また、次の指摘も、近年はよく耳にします。

“西洋人は自然を勝手に手製の鋳型にはめて幾何学的な庭を造って喜んでいるのが多いのに、日本人はなるべく山水の自然をそこなうことなしに住居のそばに誘致し自分はその自然の中にいだかれ、その自然と同化した気持ちになることを楽しみとするのである。”

もっとも、近年では西洋のガーデニングでも、日本流の自然再現の手法がひとつのジャンルとして確立されているようです。植木で幾何学模様を作るばかりが西洋流という訳ではなく、そこには恐らく貴族文化などの社会的な要求もあったのでしょう。とはいえ日本ではその貴族が自然の再現や縮図を尊んだ訳で、文化の根底に少なからぬ意識の違いがある事は事実なのですが。

そうしてその意識の違いが精神活動、主に芸術の分野にも現れていると言うのですね。これについても、まぁ異論のある方はおられないでしょう。しばしば挙げられる例ですが、古来日本の詩や歌は自然を自己と溶け合うものとして歌うことが多いのに対して、西洋のそれはあくまで自我と外界の葛藤や対立から導かれるものであり、専らそれは人間に注目したものなのです。また、西洋では器楽や風景画というのは比較的歴史の新しいものですが、日本の場合は逆でした。

このように様々な特異性を持つ日本人の自然観でしたが、現在はどうでしょう。寅彦の頃にはまだ、それが失われるなどとは露程も思われない状況だったようですが、近年はそうでもありませんね。東京に居ると、雨を知らせる匂いすら嗅ぎ分けられないような人間が普通に居るのですから、日本人も随分変わったものです。きっと日本人は変わらないと書いた寅彦が現状を見たら、驚くのではないでしょうか。

だからこそ、次の寅彦の結びには、首肯せざるを得ないと思います。

“私は、日本のあらゆる特異性を認識してそれを生かしつつ周囲の環境に適応させることが日本人の使命であり存在理由でありまた世界人類の健全な進歩への寄与であろうと思うものである。世界から桜の花が消えてしまえば世界はやはりそれだけさびしくなるのである。”




路傍の草

どうやら本格的にぶり返してしまったようで、嫌な咳が止まりません。病み上がりに髪を切ったのは、少々軽率だったでしょうか。しかしあの落ち武者頭で青白い顔をしていては、どこからどう見ても立派な不審者。社会復帰をする上で身だしなみは避けては通れない関門なのです。

とはいえ、それで風邪をぶり返して居たのでは全く本末転倒ですね。食事の量が戻らないこともあり、体力の衰えを如実に感じます。もう若くはないんだなぁ、と、しみじみ。というか私に若々しい時期なんてありましたっけ。趣味からして懐古的ですからね、音楽にせよ文学にせよ、好むのは主に古いものばかりです。

でも分類上、明治大正の文学は近現代文学なのだそうですよ。ならば夏目漱石も寺田寅彦も立派な近代作家ですね、そろそろ一世紀ほど経ちますけれど。というわけで、本日も近現代の文学をひとつご紹介しましょう(笑

○路傍の草
著者:寺田寅彦
初出:1925年(中央公論)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2454.html
※リンクは青空文庫です

六編の短編からなる随筆集。各編読み切りの形で、互いに全く関連性のないそれぞれ別の話題を扱っています。形式からして、連載だったのではないかと思うのですが、どうでしょう。ちょっと調べてみましたが、はっきりとしたことは分かりませんでした。

最初の一本のタイトルは「車上」。昔の言葉に「三上」というのがありまして、これは文章を考えるのに適した三つの場所が、馬上、枕上、厩上であるという意味なのだそうです。この言葉は寅彦の時代でも既に古びたものになっていたようで、彼はこの時代にそのまま適用出来そうなのは厩上のみであると述べています。

トイレで何かを閃くというネタは日本に限らず西洋にも見られるものですが、実際ああいう閉鎖空間に閉じこもっている時って、不思議と頭は冴えていたりしますよね。何を隠そう私も、仕事上のアイデアをトイレで不意に思いつくということを何度か経験しました。しかしそれ以上に多いのは、やはり風呂でしょうか。

寅彦はそれらの条件が文章を練るのに適していた理由として、体が束縛されていて用事を持ちかけられる心配が無いために、かえって精神は解放された状態だからではないかと分析しています。その上で、満員電車の中は、その環境に慣れてしまえば「三上」と似たような効果を発揮するというのですね。正直私は無理そうですが、あの環境で人に寄りかかって寝ている人もいるくらいですから、達人ともなるとそうなのかも知れません。

次の「卓上演説」は、どうやら当時流行ったらしい習慣に対する苦言。続く「ラジオフォビア」は、当時はまだ出来たばかりだったラジオについての話題です。

当時のラジオはまだ受信環境が劣悪であった事もあり、まともに聴けることはあまりなかったようですね。かなりノイズまみれの割れた音で、ガーピーやっていたと寅彦は記しています。しかしそれは物珍しさでもてはやされ、喫茶店といい食堂といい個人の家といい、あちこちで雑音を垂れ流していたのだとか。どうやら寅彦は、突然無遠慮に静寂をかき乱すラジオの雑音に、だいぶ辟易していたようです。

とはいえ、そこは寅彦。ラジオへの苦情も単なる愚痴のみで終わらせる事はありません。終盤に記された次の言葉は、なかなか鋭い指摘だと思います。

“いわゆるファンが、電波伝播の現象を少しも不思議と思ってみる事もなしに、万事をのみこんだ顔をしているのがおかしいと言った理学者がある。しかし考えてみると理学者自身もうっかりすると同じような理学ファンになってしまう。相対性理論ファン、素量説ファンになる恐れが多分にある。これは警戒すべきことである。”

他人のこしらえた公式を振り回して他人の論文を批評しているだけでも、立派な学者であるかのような顔は出来ますからね。ただ知識を詰め込んでひけらかすだけならそれは学者ではなく、ファンだと言うのです。これは学者に限った事ではなく、何についても言える事だと思います。

四つ目の「侵入者」は、寅彦の別荘の庭を荒らす、田舎の子供の話。当時の子供は今よりかなり野蛮であった上、東京者というのは当時から好奇と嫉妬の対象であったようですね。続く「草刈り」は、今度は寅彦が刈る側に。庭の雑草を刈りつつ、もし雑草を食料として応用出来るならと想像します。

最後の「藁が真綿になる話」は、新聞に載った詐欺事件の顛末から。ビーカーに入れた藁を薬品で綿に変えられると嘘をついて金をだまし取った男の滑稽な事件から、しかしそれを滑稽とばかり笑っては居られないと警句を発します。

“山の芋が鰻になったりする「事実」も同様である。だんだんにこの「事実」に慣れて来ると、おしまいには、そのいわゆる「ちょっとした」経路を省略しても同じ事になりそうな気がするものではあるまいか。頭の冷静な場合にはそんな事はないとしても、切迫した事態のもとに頭が少し不透明になった場合には存外ありそうな事だと思う。”

ちょっとした飛躍を許容しさえすれば望む結果が得られるというとき、確かに人はその飛躍を受け入れてしまうものです。だから何時の世にも詐欺は成立するのですし、都合の良い思い込みに起因する事故もまた、寅彦が指摘した通り減る事がありません。

身近に目を向けてみるならば、しばしばメディアの喧伝する「事実」もそうしたものと言えます。しかしその報道を聞く側は、信じた方が自分の気持ちとしては都合が良いものだから、因果を繋ぐ鍵輪の欠けているのを、知っていてあえて見逃すのです。そんなことが許されるならば、ビーカーの藁が真綿になると信じた人を、どうして笑えるでしょうか。

寅彦にとって、そして恐らくは当時の大衆にとって比較的身近であった話題を、鋭い観察眼と多分の皮肉を交えて綴った随筆集。当時の日本の様子を知る事が出来るのは勿論、寅彦ならではの鋭い分析と、時代によらず普遍的に当てはまる警句がためになる読み物でした。


宇宙の始まり

今日の東京は、割とよい天気です。快晴とはいきませんが空気は暖かいですし、照ったり陰ったりする日差しも良い感じに柔らかく、外で過ごすのが気持ち良さそうですね。しかし、今日も私は部屋に籠り切り。なにしろ病み上がりというより未だ闇に片足を突っ込んでいるような有様ですから、致し方ありません。というわけで、今日はレコードを聴きながら読書に勤しんでいます。

レコードとコーヒーと、読書で過ごす日曜の午後。うん、字面だけならなんだかブルジョワな感じもしますね、肝心の本人が外に出たくて仕方ないという事情さえ無ければ。まぁ人生諦めが肝心。ちょうど先程小難しい一冊を読み終えたところですので、内容を忘れないうちに感想でも書いておこうと思います。

○宇宙の始まり
著者:アレニウス・スヴァンテ
翻訳:寺田寅彦
初出:1944年(岩波文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000226/card1150.html
※リンクは青空文庫です

約70年前の考古学的、哲学的、ならびに科学的知識に基づく宇宙論。寺田寅彦にしてはやや思い込みが多いなと思ったら、実はただの翻訳作品だったと知って、納得。特に序盤の思い込みの多さは寅彦らしくもないところが多いので、首を傾げていたところです。

文体は寅彦にしてはやや硬めで、言い回しのやや威厳のあるところはどことなく漱石を彷彿とさせますが、漱石のような造語のオンパレードや送り仮名の妙なところは全然無く、日本語として整っていて読み易いのはやはり寅彦らしいところです。

内容は人類の宇宙観について、伝説と占星術の時代から哲学の時代を経て哲学と科学の混淆した時代に至り、やがて純然たる科学による宇宙研究の時代になるまでを追ったもの。列挙された知識はいかんせん一世紀程前のものですので、まだ放射性炭素年代測定法も無く、原子力も未だ知られてはいないということもあって、誤謬と誤解の塊と言っても過言ではありません。

とはいえ、世界各地の神話伝承に見る宇宙観の類似性や、各宗教における宇宙論の比較など、興味深い考察は多数含まれており、あくまで誤謬を含んだお話程度のつもりで読むのであれば、現在でも充分に参考になるものと言えるのではないでしょうか。

個人的に興味深かったのは、哲学者達と天文科学の関わりについて。かつて占星術が天文学の担い手であったことは周知の事実であるかと思いますが、それを引き継いだのが哲学者達であったことを知るものは、哲学に明るくはない一般人の間ではそう多くはないでしょう。かのカントも宇宙論を記していたというのですから、驚きですね。

占星術から哲学へとその担い手が移り変わって行く間に横たわっているのは、ご存知暗黒時代。世界中に宗教が台頭し、無知と迷信が人類を支配した時代です。科学史を読んでいるとどうしても避けて通れないのがこの時代ですが、この作品もこの時代について扱っています。「愚かな人間の知恵」(笑)として否定された科学はこの時代に大幅な後退を余儀なくされ、哲学の時代に至ってもう一度やり直す事になります。

なぜそんなことになったかと言えば、そもそも全く思考力など必要としない宗教を知識という脅威から守るため、キリストやイスラムは勿論、宗教がこぞって科学を抹殺しようとしたからです。それまでの時代に蓄積された文献は多くの場合焼き捨てられ、図書館は破壊され、学者は殺されて、人類は文明を失ったと言っても過言ではありません。

やがて権勢を恣にした宗教が支配者達から疎まれるようになると、科学は避難所を得ることになります。そうして再び哲学と占星術の練り物の中から発展してきたのが、現在の科学という訳なのですね。

しかしこの本が記された時代の科学は、現在のそれと比べるといかんせん初歩的なものでしかありませんでした。そのため、彼等は現在とはかなり違う宇宙観を持っていたようです。曰く、宇宙には始まりも終わりも無いであるとか、惑星の内部はガス体であるとか、太陽の熱の源は圧力による発熱であるとか、あるいはただの燃焼であるとか。

キュリーがラジウムを発見したのはこの本が書かれる少し前の事だったそうですから、まだ世界は核融合や核分裂を知らず、恒星のエネルギー源をニュートン物理学の範囲のみで説明しなければならないという無理難題に挑んでいた訳です。

また当時はビッグバン説はまだ提唱されておらず、それと似たような仮説の可能性が示唆されていたに過ぎません。ですから、宇宙の天体の持つ運動エネルギーの起源もまた諸説紛々であり、これといって確たる証拠を示す事が出来たものはありませんでした。故に、この作品の筆者が輻射圧(光圧)をその起源として有力視していたのも、致し方ない事なのかも知れません。

ただ、光圧の微弱さを考えれば、初速ゼロの状態ではそれが恒星や惑星の重力に対抗しうる程のエネルギー足り得ない事は、当時でも分かりそうなものだと思うのですが・・・この作品の筆者は、どうしてそこに思い至らなかったのでしょうね。ソーラーセイルの実用性については近年JAXAのイカロスが実証したわけですが、イカロスとて初速を与えられてこその光圧航法です。

まぁいずれにせよ、つまりここに記されている宇宙論はその多くが間違ったものであり、今となっては否定された過去の理論をまとめた書籍に過ぎないといえば、その通りでしょう。しかし、それは無価値な事と言えるでしょうか。大衆的に見れば、そうなのかも知れません。しかし、私は以下の筆者の言葉の方が、より正しいものの見方であると思うのです。

“皮相的な傍観者の眼には、一つの思考体系が現われると、他のものが転覆するように見えることが往々ある。そのために、科学研究の圏外にある人々からは、明解を求めんとする我々の努力は畢竟無駄であるという声を聞くことがしばしばある。しかし誰でも発達の経路を少し詳しく調べてみさえすれば、我々の知識は最初は目にも付かないような小さな種子からだんだん発育した威勢の良い大樹のようなものであることに気が付いて安心するであろう。”

科学とは即ち、人類の積み上げてきた無数の実証と訂正の繰り返しであり、一般人が今正しいと信じ込んでいる事柄のうちの幾つかでさえ、いずれはひっくり返るのかもしれません。しかし大事なのはそういう訂正を不断に継続してきたという事実であって、絶対の正解の有無ではないのです。

かつて宗教が人類に強要した無思考と妄信、絶対服従からは何も生まれません。考える事を嫌がる大衆は、なにかと手軽に得られる「正解」を求めるものですが、無償で手軽に得られる正解などというものは、そもそもないのです。

現在あたかも無償で得られるようになったかに見える幾つかの「真実」でさえ、その背後には無数の学者達の不断の努力があり、数多の仮説が否定され脱落して行く中で「実証」により生き残ったものであるということを認識するなら、現在の科学に対して向ける視線もまた少しは変わって来るのではないでしょうか。そういう意味では、こうした過去の人々の考えを知る事もまた、それなりに価値のある事であると思うのです。


OPEN SESAME

休みの日になると、体調が崩れるのはどうしてなのでしょう。昨晩だって早寝した筈なのに、寝坊した上に少しぶり返してしまいました。というわけで、本日はほぼ一日中家に籠り切りです。まぁ、とはいってもオーディオも復活した事ですし、退屈することはないのですけどね。

先日到着した交換品のKT88EHは、実に調子よく稼働しています。前回は運用開始から三日でスパークしてくれたので、今日あたり問題が出るのではと少し心配していたのですが、どうやら杞憂に終わったようで。最初は硬かった音質も、良い感じにこなれて聴き易くなってきました。というわけで、今日は久々にレコードのお話を。

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タイトル  :OPEN SESAME
アーティスト:Freddie Hubbard

一曲目は表題曲、"OPEN SESAME"。日本語に訳すと「開けゴマ」ですね。あれは確かアラビアン・ナイトの一節でしたでしょうか。物語についてはどうしようもない話だという記憶しか無いのですけれど、あんなものでも異国情緒ということで随分もてはやされているのですよね。この曲も、冒頭に登場するテーマの部分がなにやら少し怪しい雰囲気を持っていて、なるほど異国情緒の物語という印象です。

アラビアンナイトは決してそんなに愉快な物語ではなかったと思うのですけれど、この曲は軽快で愉快ですね。異国情緒なメインテーマも情熱溢れる演奏が魅力的ですし、続くいかにもJAZZらしいパートも実に小気味よく、何度も聴きたくなるような楽しい一曲でした。

二曲目の"BUT BEAUTIFUL"は夜のラウンジが似合いそうな、ゆったりとした大人っぽい一曲。スローなナンバーではありますが、主旋律の表情の変化が実に鮮やかで、曲の世界に引き込まれます。静かな晩にゆったりとした椅子に腰掛けて、リラックスして聴きたい感じですね。

続く"GYPSY BLUE"は再び異国情緒な感じですが、エネルギッシュでスピード感のある一曲目とは違って、テンポは緩め。リズムは弾んでいるのですが、全体的にやや黄昏れたといいますか、あるいは少し乾いたようなくたびれたような、そんな雰囲気が付いて回っています。そのため華やかな繁華街というよりは、少し寂れた古い街並やともするとスラムのような景色が似合いそうな印象でした。

ちなみにこの曲、作曲者は一曲目と同じティナ・ブルックス。つまりこのアルバムのテナーサックス奏者です。なるほど、雰囲気が一曲目と似ているわけですね。

B面一曲目は"ALL OR NOTHING AT ALL"。イントロのピアノのノスタルジックな感じから、エネルギッシュかつスピード感溢れるテーマへの移行が印象的です。曲は展開が多く、表情がどんどん変わって行くので飽きさせません。どのパートも素晴らしい演奏ですが、この曲では特に、曲の表情の転換点となる部分でのドラムの振る舞いが小気味よくて好きですね。

続く"ONE MINT JULEP"は実にアメリカ的なイメージの、ちょっとおどけたメロディの一曲。なんだかホームドラマのワンシーンに使えそうな感じとでもいいましょうか。あまり気取った感じの無い親しみ易さが魅力です。この曲はもとはR&Bなのだそうで、なるほどブルージーな感じのメロディラインは、JAZZとしては少し珍しいかも知れません。

締めの一曲は"HUB'S NUB"。この曲はショーのステージに向きそうな雰囲気です。特に冒頭の部分はどことなく舞台でバンドメンバーや役者を紹介している時のBGMによさそうな、イントロダクション的な感じがするのですよね。この曲はフレディ・ハーバードのオリジナルなのだそうです。

このアルバムは、ブルーノートレコードにおけるフレディ・ハーバードのデビュー作であり、初リーダー作でもあるのだとか。ジャケットに写る彼の表情は、むしろまだ少年ともいうべきあどけなさを残しています。しかしその演奏には拙さが全く感じられず、若い奏者にありがちなエネルギー過多なところがありません。パワフルさは確かに若さ故なのでしょうが、しかし熟練した奏者のような端正さも併せ持っていて、とても好感の持てる聴き易い演奏です。

以前聴いた"UP JUMPED SPRING"に惚れ込んで彼のアルバムを購入してみたわけですが、結果は大正解でしたね。そしてもうひとつ収穫と言えるのは、ティナの曲がなかなか面白い、ということ。彼名義のアルバムもあるそうですから、そのうちティナ・ブルックスのアルバムを聴いてみたいと思います。今まで聴いてきたJAZZとはちょっと毛色の違う、しかし非常に聴き易くて魅力的な一枚でした。


マクロレンズ購入

以前から買おうかどうしようかと迷っていたマクロレンズですが、本日とうとう意を決して購入してしまいました。購入したのはOLYMPUSの M.ZUIKO DIGITAL ED 60mm F2.8 MACROです。消費税が上がる前に必要機材は全部揃えてしまうつもりでしたけれど、やっぱりこのくらいの値段のものを買うのは勇気が入りますね。これに慣れてしまったらきっと、金銭感覚が崩壊して大変な事になるでしょう。

2014-01-24
2014-01-24 posted by (C)circias

まぁレンズは機種が変わっても引き継がれる関係上、そう大量に売れるものではありませんし、そもそも最新の光学技術の粋を集めた品なのですから、高くなるのも当然というものなのでしょうけれど。そもそもからしてこの瑞光レンズを応援したくてオリンパスにしたのですから、高いの何だのは今更でしょうか。

今回は純正のレンズフード(これがまた異様に高い)とMARUMIの保護フィルタも最上位グレードのものを奢り、総額5万円ほどになってしまいました。レンズ本体が高いのは別に異論は無いのですけど、レンズフードの異様な値段はちょっとボッタクリ臭が漂います。堂々と「CHINA」のプリントが入った安普請のプラ筒一本に4千円って・・・。まぁ、今更です、はい。というわけで、気を取り直して、とりあえず性能をテストしてみました。

P1240140
P1240140 posted by (C)circias

まずは目一杯寄った場合の撮影範囲を確認。ブレてしまっていますが、オートフォーカスはちゃんと合焦しています。ただこのくらい寄ってしまうと手ぶれが大変な事になるので、ここまで寄るならば何かしらカメラを固定する方法を用意した方が良いでしょう。最短撮影距離は0.19mということになっていますが、レンズ先端から10cmくらいまでは接近出来ます。

P1240145
P1240145 posted by (C)circias

次に、真空管を撮影してみました。TU-877の初段の12AX7です。肉眼では見えない指紋まで写ってしまっていますね。これは目一杯寄っては居ないので、まだ三脚等はなしでも手振れ補正でなんとかなる範囲のようです。ただ、このくらいの距離だとオートフォーカスがなかなかうまく働いてくれません。いっそマニュアルフォーカスにして、自分でカメラを前後に動かして合焦した方が速いでしょう。

P1240141
P1240141 posted by (C)circias

最後に、少し離れたところからTU-877を一枚。画角はかなり狭いので、こんな感じになにがしかのオブジェクトを撮る分には、さほど工夫しなくともなんとなく絵になってしまうのが面白いところです。このあとゴミ箱等々くだらないものをあれこれ撮ってみましたが、案外皆もっともらしい絵になっていたのはちょっと愉快でした。ちなみに、このくらい離れた対象相手なら、オートフォーカスも標準レンズ並みに素早いです。

遠景に対するフォーカスが結構素早いので、スナップ的な使い方もできないこともないかな、という印象。少なくともここまで拡大出来るなら、昆虫写真では間違いなく戦力になるでしょうね。春が楽しみです。

数学と語学

今日はなんだか、眠くて仕方ありません。睡眠時間もいつも通りですし、とりわけ疲れるようなこともなかったと思うのですけれど、何故でしょうね。ちょっぴり暖かいせいでしょうか。といっても、私が表に出るのは大抵早朝と夜だけなので、いずれにしても日中の暖かさの恩恵を受ける事などないのですけれど。

体調の方は、昨日よりはだいぶ良くなったようです。漢方が効いたのでしょうか。御陰で今日は、割と平穏な一日でした。というわけで、取り立てて話題もありませんので、今日も読んだ本の話など。

○数学と語学
著者:寺田寅彦
初出:1929年(東京帝国大学新聞)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2364.html
※リンクは青空文庫です

数学と語学の類似点について書かれた作品。よく、数学は苦手だけど語学は得意とか、その逆であるとかいった話を耳にする事がありますよね。何を隠そう私はまさに前者でした。といっても一応理系大学でそれなりの成績をとっていたわけで、文系の皆さんと比べて数学が出来ないという程苦手だったわけではないと思うのですけれど。

こういった話は寺田寅彦の時代から、ごくごく一般的にあることだったようです。そこで寅彦は、一方が得意で他方が苦手であるという学生のために、少しでも苦手意識を和らげる事が出来ればとこの作品を著した・・・はずなのですけれど。冒頭から、こんな身も蓋もない事を言い出します。

“結局頭のよいものは両方の点がいいという事が、最も多くプロバブルである、といってしまえばそれまでである。”

いやもう本当にそれまでなので、そういう事は思っても言わないでもらいたいのですけれど。しかし彼がある入試でとった統計によれば、一方が非常に出来て他方は全く駄目というような生徒はほとんど見られず、両教科の点数にはそれなりの相関関係が認められたのだそうです。

よくいわれる事ですが、二つの教科に決定的な開きができてしまう場合、その要因の主たるものは本人の能力ではなく、教師であるということでしょう。実際私は、中学の時は数学は常時赤点でしたが、高校に入ってからは成績上位者でした。その差を作ったのは私の頭ではなく、中学の駄目教師だったというわけです。大学に入ってからも、やはり同じ数学系科目でも先生次第でかなり成績が違ったことは良く覚えています。

そんな訳で、寅彦は二つの教科の得手不得手に逆相関があるかどうかについては前提で切って捨て、逆に、二つの教科の学習に要する頭脳の働きに共通な因子があるのではないか、ということについて語ります。

語学と言えばまず暗記とくるのは誰しも共通の認識では無いでしょうか。なるほど確かに語彙が無ければ始まりませんし、実体験としても散々暗記をやらされたことを誰でも思い出すでしょう。それに対して数学はどうでしょうか、どちらかというとひたすら計算問題を解かされていたような気がします。語学は暗記で数学は論理というようなイメージが定着してしまっているのは、恐らくそういった学習方法の弊害でしょう。

前述のような対比をされてしまうと両者はあたかも相容れないもののように見えますが、実はそうでもないと寅彦は指摘しています。なるほど数学には単語帳を必要とする程の単語は現れませんが、しかし覚えるべき単語は確かにあり、そういった単語の使用方法の規則、即ち文法にあたるものが数式であるというのです。

“数学では最初に若干の公理前提を置いて、あとは論理に従って前提の中に含まれているものを分析し、分析したものを組み立ててゆくのであるが、われわれの言語によって考えを運んでゆく過程もかなりこれと似たところがある”

そして複雑さという意味では、数学のそれよりも言語のそれのほうがよほど複雑で多岐に渡ると言うのです。まぁ、確かにその通り。そういわれてしまうと、これほど複雑な日本語を操れる私達が、数える程しか文法を持たない数学を相手に苦戦した事がなにやら奇妙にさえ思えてしまうから不思議なものですね。

しかし考えてもみると、数学が苦手だという人は大抵、次のどちらかに当てはまるのです。つまり、数式を覚えられない人か、数式の使い方が分からない人です。前者はともかくとして、後者はつまり文法の教科書を丸暗記してはいても、文法そのものを全く理解して居ない人という事になりますね。そして思えば、中学の頃の私はまさにそれでした。

そんな私が高校で劇的に成績を伸ばすことができたのは、全ての公式についてその「意味する事」を先生に聞きに行き、式の意味を理解できたからなのです。例えば微分のdt/dxという記号は、どうしてそういう表記なのか・・・などという、普通は気にもとめないような事まで質問したものでした。今思えば、先生もよく付き合ってくれたものです。

語学にしても同じ事。寅彦も指摘している通り、単語や文法をただ暗記しても英文を書けるようにはならないですよね。ですから結局、必要なのは「法則を理解して使えるようになる事」なのです。そしてそのために必要なのは何かと言うと、根気よく時間をかけて繰り返し学習する事であるというのが結論でした。

まぁ当たり前過ぎて本当に身も蓋もない話なのですけれど、だからこそ今日に至るまで、それほど画期的な勉強法というものが発見されずにいるのでしょう。しかしそうは言っても、数学は言語と違って論理の筋道に飛躍は有り得ないので、むしろ言語より扱い易い筈だと寅彦は述べています。

まぁそれはそうなのですけれど、しかしだからこそ、多くの日本人は数学が苦手なのでしょう。なぜなら、ちゃんと全ての筋道を教えてくれる数学教師なんて、まず滅多に居ないからです。彼等の教え方を思い出してみると、非常に大きな飛躍をするのですよね。途中式は基本的に省くし、説明もしません。

あるいは突然虚空から新しい記号や数値が涌いてきて、式に追加されるのです。大抵それは記号を式に置き換えたり、その逆を行ったりしたものではあるのですが、そもそも教わる側からすればその置き換えが自明ではないという事実を、彼等はあえて無視しています。その結果、数学が分からない人というのは、大抵そこで振り落とされてしまうのです。

寅彦は、しばしば言語に見られる飛躍を猟犬に追われた野兎の足跡に喩えましたが、本来数学には有り得ない筈のその飛躍を教師がやってのけているのですから、狩りの経験など無い子犬達が「まかれて」しまうのも無理は無いでしょう。本来は学生の啓発を目的としたものの筈なのですけれど、読めば読む程に日本の教育の問題点があぶり出されてくるような作品でした。

コーヒー哲学序説

不良品だったアンプの真空管も無事に新品に交換され、本日は久しぶりにレコードを聴きながらコーヒーを楽しんでいます。なんだかとても特別な事をしているような気分なのですけど、ちょっと前までこれが日常だったのですよね。せいぜい十数日ご無沙汰だっただけなのに、なんだかそれが遠い昔の事のようで。

ただ惜しむらくは、今飲んでいるコーヒーの豆は、正月前に買ったものであるという事。本当ならとっくに飲み終えている筈なのですけれど、まぁ事情が事情ですから仕方ありません。しかし、古くなったとは言っても、元が良い豆だけに香りは良いですね。これだって、コーヒーメーカーで淹れたものや缶コーヒーなんかに比べたら、充分に贅沢な一杯です。

ところでコーヒーと言えば、寺田寅彦の随筆の中に、コーヒーについて書いたものがあるのはご存知でしょうか。というわけで、本日はこの作品をご紹介したいと思います。

○コーヒー哲学序説
著者:寺田寅彦
初出:1933年(経済往来)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2479.html
※リンクは青空文庫です

自分とコーヒーについて徒然と語った作品。寺田寅彦は大の甘党として知られていますが、一方で、大のコーヒー好きでもあったようです。彼が初めてコーヒーに触れたのは、彼がまだ推さない子供の頃であったそうです。といってもコーヒーそのものを飲まされた訳ではなく、牛乳の臭み消しとして用いられたコーヒーに、すっかり夢中になってしまったのだとか。

当時は牛乳はまだ一般的な飲み物ではなく、滋養強壮のための薬として用いられていました。しかし、そもそも乳製品などない時代にあの独特の匂いを嗅がされたなら、どうでしょう。恐らく気分が悪くなるのではないでしょうか。実際、寅彦にとっても牛乳は少々抵抗のある飲み物だったといいます。医師はそんな寅彦のために、少量のコーヒーで臭みを消してくれたのでした。

とはいえ当時コーヒーは貴重品でしたから、そうお目にかかる事はありません。彼が再びコーヒーに触れるのは、ドイツに留学してからの事になります。

寅彦が下宿したのはベルリンでした。当時から、ドイツと言えばコーヒーの美味しい場所であったようですね。先日私もドイツのコーヒーをお土産に頂きましたが、なるほど確かに質の良いものでした。寅彦は、毎日下宿の窓から朝の街を見下ろしつつ、香ばしいコーヒーをすするのが日課であったと書いています。また、夕方の講義を聴く前に、カフェでコーヒーを飲んだりもしていたようですね。

彼はドイツ以外にも各地を旅行したようで、各地のコーヒーについても色々と書いています。例えば、ロシアのコーヒーは美味かったが、イギリスのコーヒーは大抵まずかったとか・・・こんなところにまで飯マズ伝説が(笑

それ以降の寅彦は、日本でもコーヒーを嗜んでいたようです。とはいっても、日本のコーヒーもなかなかまともなものは少なくて、酷いものだと汁粉のような味だったと言いますから想像もできませんね。一体全体どんな淹れ方をしたらそんなことになるのでしょう。恐らく、煎りの段階で相当やらかしているのだろうとは思いますが。そんなわけで彼が好んだのは、銀座の風月というお店でした。

彼はいわゆるコーヒー通ではなかったそうです。もちろん美味しいコーヒーは沢山飲んできたのですから、それなりに好みのハードルは高かったのでしょうけれど、どちらかといえば環境を含めた、コーヒーを飲むという一連の行為を嗜好として楽しんでいたようです。そのため、店の調度品や雰囲気などといった部分には色々と拘りがあったようですね。

つまり彼にとってコーヒーを飲むという事は、味覚のための行為というよりは、むしろ精神のための行為であったというわけです。精神を刺激し朗らかにするコーヒーの効果は、少なからず彼の仕事の助けにもなっていたのだとか。彼はその人を酔わせ、活動の原動力となる効果を宗教や哲学、芸術などに準え、次のように述べました。

“そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくも自身にとっては下手な芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである。”

故にこの作品のタイトルには「コーヒー哲学」とあるわけです。もっともそれは哲学と呼ぶにはあまりに安価な代物ではありますけれども、そう馬鹿にしたものでもないでしょう。というのも、コーヒーには宗教ほど破滅的な影響力は無いからです。寅彦はそれについて痛烈な皮肉を述べた後、次のように話を締めくくっています。

“コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまった。これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない。”

思わずにやりと笑ってしまう上手さですね。コーヒーにまつわるとりとめもない思い出話から、最期はちくりと皮肉を一刺し。そして自ら展開した終盤の話題に絡めて、ちょっとしたジョークで締めくくるこの上手さには脱帽です。100年以上前の情緒溢れるコーヒー談義としては勿論、寺田寅彦ならではのウィットが効いた、ちょっと知的な読み物としても楽しめる作品でした。


イズムの功過

病み上がり二日目。昨日と比べると、体調はだいぶ良くなっているようです。咳は相変わらずですが、喉の違和感はほとんどなくなりました。この分なら今週末は、久しぶりに少し出掛ける事ができるかもしれません。久しぶりに部屋の掃除もしましたし、だんだん日常が戻ってきました。

電車内での読書も再開しています。とりあえず寺田寅彦の作品を読み進める一方で、まだご紹介していない漱石の作品を読み直してみたり。今日は漱石を二本読み直したのですけど、そのうち短い方の一本をご紹介したいと思います。

○イズムの功過
著者:夏目漱石
初出:1910年(東京朝日新聞)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card2314.html
※リンクは青空文庫です

いわゆる何々主義、というような形式のあるべき位置を説いた小品。こと日本人というのは型にはまりがちな傾向にありますが、型を意識するあまり自己の発展を妨げる事の無意味さを分かり易く解説しています。

お話はまず、「○○イズム」とはそもそも何なのか、ということから。漱石はそれを、ある事柄に関する無数の事実を束にして、頭の引き出しに入れ易くしたものと述べました。この点について異論のある方はおられないでしょう。事実、なにがしかの形式というのは形式が先にあるのではなく、似通った性質のものを寄せ集め、その共通した特徴を抽出して後の人間がまとめあげ、名付けるものなのですから。

それは多くの場合既存の何かを総称するために用いられる名前であり、どちらかといえば、それを用いて何かをしようという性質のものではありません。それで、漱石はそれをこんな風に批評しました。

“実生活上の行為を直接に支配するために作られたる指南車というよりは、吾人の知識欲を充たすための統一函である。文章ではなくって字引である。”

また漱石は、イズムを「輪郭」であるとも述べています。それは緻密な中身をもっているものではなく、中身をもっている無数の事実から、輪郭を抽出したものであるというのです。故に漱石は次のように述べて、ある主義の型枠の中に自分を押し込める事の無意味さを説きました。

“過去はこれらのイズムに因って支配せられたるが故に、これからもまたこのイズムに支配せられざるべからずと臆断して、一短期の過程より得たる輪廓を胸に蔵して、凡てを断ぜんとするものは、升を抱いて高さを計り、かねて長さを量らんとするが如き暴挙である。”

とはいっても、漱石は形式を全面的に否定しているわけではありません。例えば数学の公式のように、過去から抽出され抽象化された形式が、未来に適用可能な場合もあることを認めています。この作品でそのような事例として漱石が意識したのは専ら自然現象についてのみのようですが、例えば音楽や工芸でも、「形式」が技法に直結する場合がありますよね。いわゆる様式美という奴です。

しかし、漱石がこの作品を書くにあたり、その対象として主に念頭においていた文学や思想といった分野では、「イズム」そのものにそういった具体的な効能がある訳ではありませんでした。そのような分野の場合、本来は自由に発展出来る筈の思考を形式に合わせてねじ曲げる事になる訳ですから、百害あって一利無しです。

ところが、人間というのは形式を好むもので、なにがしかの派閥に属したがる人が多いのですね。そのため、文学や思想の分野でも、「何々主義」なるものはしばしば一世を風靡するのみならず、同じ型にはまらないその他の勢力を攻撃したり排斥したりする事がしばしばありました。

このとき漱石が念頭に置いていたのは、当時思想界でもてはやされた自然主義に属する人達だったようです。しかし、当時の自然主義者に限らず、我が思想こそは真実なりと信じて疑わないばかりか、他者を打ち負かして自らの思想のもとに屈服させようとする勢力は、何時の時代もそこかしこにあるものです。

また、比較的「形式」に実用性が伴う音楽などの分野に於いても、形式至上主義に走って他者を屈服させようと弁舌を振るうものは後を絶ちません。そうした行為は無意味であるばかりか、彼等自身を周囲から隔絶させ、衰退させる要因にさえなるでしょう。ですから次の結論は、なにかにつけ形式を押し付けたがる全ての人にとって、大いに留意するべきものであると思うのです。

“人生の全局面を蔽う大輪廓を描いて、未来をその中に追い込もうとするよりも、茫漠たる輪廓中の一小片を堅固に把持して、其処に自然主義の恒久を認識してもらう方が彼らのために得策ではなかろうかと思う。”

世の中の人々がみなこの精神で暮らしてくれたなら、きっと世界はもっと平和になるでしょうにね。不思議なもので、形式を押し付けたがる人って中身が無いのです。例えば音楽なら、作曲出来ない人程曲の形式をとやかくいうものなのですよ。思想でもそうでしょう、本人には確固としたものがなにもないからこそ、形式に縋り、形式を異にするものを排斥せずにはいられないのです。

できることなら、そんな皆さんには是非この作品を読んでよく考えて頂きたいところなのですけれど、まぁ難しいのでしょうね。そもそも他人の言葉に耳を貸せるようなら、そんなことにはならないのですし。

職場復帰

足掛け9日間に渡り寝込んでいたわけですが、本日めでたく(?)職場復帰致しました。いえね、まだ晩の体温は37度あるので・・・というか寝起き以外はそれくらいなので、およそ治ったとはいい難い状態なのですけれども、職場からのメールの雰囲気が言外に「出て欲しいなぁ」という感じになっていたので、まぁ仕方なく。

一日会社で働いてみて感じたのは、まずなにより、自室の環境はこれでも随分理想的だったのだなぁ、ということ。日曜日は半日以上起きていましたけれど、自室でなら喉が痛くなったり咳が酷くなったりする事はありませんでした。でも、会社の乾燥していて汚い空気の中では、ものの10分もすれば喉が痛くなって来るのです。案外、空気清浄機って効いているものなのですね。

そしてもうひとつ。食事の量の多さには閉口しました。もともと一品減らすようにしていたのですけど、今日はメニューから二品減らして、それでも相当苦しい思いをしました。なにしろこのところ、全然食べていませんでしたからねぇ、胃腸の方も少しずつ慣らして行かないといけません。今週は薬を飲みながら、だましだまし行くしか無いでしょうね。週末にぶり返したりしないように、気をつけたいところです。
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