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日々の便り

 

行人

朝晩の冷え込みがだいぶ厳しくなってきましたね。実は今日は10時前に一度寝落ちてしまったのですけど、先程床の冷たさに起こされました。一応暖房はついているのですが、足元の方からひんやりと冷気が上がって来るのをはっきりと感じます。 そんな訳で半ば朦朧としているのですが、折角目が覚めた事ですし、風呂の順番待ちの間に何か書いておく事にしましょう。そうですね、では今晩は、読み終えたばかりの小説のお話を。 ○行人 著者:夏目漱石 初出:1912年(朝日新聞) http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card775.html ※リンクは青空文庫です 一言で言ってしまえば、とある神経衰弱の男が家庭にもたらす不和と、自らにもたらす苦痛の様子を描いた物語。このお話の形式上の主人公は二郎と呼ばれる青年なのですが、しかし彼はどちらかといえば語り手の立場であって、語られるのは神経衰弱を煩っているその兄、一郎の方です。 物語は「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の四つの編で構成されますが、このうち主人公のお話は「友達」のみで、それ以外は全て兄の一郎がひたすら自爆するお話。締めの一編がほとんど丸ごと兄の思想についての解説の手紙であるところからして、物語の趣旨はここにあると言っても良いのではないかと思います。 流れをざっと説明しますと、まず「友達」は問題提起編。お話は、共に旅行に行く筈だったところが胃の病で入院した友人が、退院するまでを描きます。この中を通して描かれるのはまず、結婚と夫婦という命題、そして主人公の人格。さらに、他の編で重要な位置を占めることになる、友人がかつて懸想したある女についての物語です。 出されたお題は「兄」でさらに発展します。序盤から続くお貞さんの結婚問題は、兄夫婦の不自然な関係という新たなテーマを東京から連れてきたのでした。もっともらしい理由を付けて東京から出てきた主人公の家族ですが、主人公はその構成と態度に疑問を覚えます。観察してみると、どうやら半ば神経衰弱気味の兄が、何か関わっているようで。 実はこの兄、妻と折り合いが悪いばかりか、娘からも避けられているのです。それはそうでしょう、癇癪持ちで意味不明な事ばかり口走り、書斎にこもりがちでいつも不機嫌な男になど、近寄りたがる女子供が居よう筈もありません。しかもあろうことかこの兄、そんな自分の駄目っぷりは全部棚に上げて、妻の不義を疑っているのです。それも、その相手は主人公であると。 兄は、疑っているのは妻の心であって弟ではないといいます。そして、妻の本心を確かめるために、二人でお泊まりしてこいなどと言い出すのですね。思わず「コジ・ファン・トゥッテ」かと突っ込みを入れたくなりますが、まぁこの兄はそういう痛い人です。 最初は突っぱねる主人公ですが、結局押し切られ、日帰りを条件に不承不承出掛けるのですが・・・結果は台風のせいでお泊まりに。 しかも悪い事に、どうやら兄の疑いは半ば当たっているようなのです。兄嫁は兄には冷淡なその代わり、主人公にはなにかとよく喋る上、気遣いもし、からかい、時として本音を吐露します。まぁ、これも兄と彼女の関係を踏まえた上で、身近に可愛くて人当たりも面倒見も良い弟が居たらどうなるか、考えるまでもないことなのですが。 結局主人公はすっかり翻弄されて大混乱。兄になんと報告したら良いか分からずに悩みます。そして、いっそごまかしてしまおうとしたことから、さらに事態は悪い方向へ転がって行きます。 「帰ってから」は、主人公達の東京での冷戦ないし神経戦のお話。兄は表面上は平穏に過ごしていますが、夫婦間の溝は明らかに広がったようです。これはもう弁護のしようのない兄の大自爆なのですが、しかし本人はそうは考えていません。兄嫁も兄嫁で、何やら意味有りげな態度を示しては主人公を恐れさせ、母まで主人公と兄嫁の関係を疑う始末。とうとう主人公は、家を出て下宿することを決意します。 「塵労」はその後の経過と、兄の自爆癖の大元にある思想のお話。そもそも事の起こりは兄であり、根も葉もない疑いから始まった事なのですから、弟を遠ざけても家庭内が丸く治まる訳がありません。当然夫婦間の冷戦はさらに深刻化し、兄の行動は誰の目から見ても異常を来し始めます。 当初は一方的に兄の肩を持っていた母や妹さえその異常ぶりに辟易する体で、兄はますます孤立。昂るばかりの兄の神経を静めようと、ここで家族は一計を案じ、兄の友人に兄を旅行に連れ出してもらう事にします。 そして主人公はその兄の友人に、是非とも兄の様子を手紙で報告して欲しいと依頼するのですが・・・。 最後の哲学めいた手紙の内容については、あえて触れないでおきましょう。その内容は、どことなく「文芸の哲学的基礎」など、漱石の随筆のうち、哲学や道徳に関係した幾つかの作品を想起させるものでした。もしかすると、漱石はこの兄に自身の煩悶も重ねたのかも知れません。 ただ面白いのは、それでも漱石は、兄の行動を肯定などしていないということです。漱石は、兄を君子としては描いていません。むしろ不器用で愚かで、なまじ頭が回るばかりに自分を追いつめ、周囲を傷付けるだけの哀れな男として描いているのです。この自己にも容赦ない冷徹なリアリズムこそ漱石の漱石らしいところであり、尊敬するべきところなのではないでしょうか。 そういえばこの兄、虞美人草の甲野さんと思想がよく似ていましたね。台詞の端々が様々な作品に登場する哲学人達と被るのは、それが漱石本人の主張であるに他ならないからであろうと思います。 また、その兄が糾弾する現代の人間関係。一言で言ってしまえば「真のない」有様は、「猫」の頃から一貫して批判されていたものでした。そんな兄が、遠慮なく批判もし、ときに無責任な事もいう友人のH氏に最大の慰藉を見出し得た事も、ある意味漱石の作品を貫くぶれないテーマであろうと思うのです。 まぁそういった小難しい事は脇に置いておくとしても、この作品は内容がひたすら陰鬱であるのとは裏腹に、なかなか読ませられる作品でした。特に露骨な恋愛沙汰も暴力沙汰もない、まことに尋常かつ平坦で、しかもギスギスした人間関係を、よくもここまで読ませる文章に仕立てたものです。 この作品を読み進めさせる主な原動力は、恐らくは不安でしょう。次に何が起こるのか、この人物はどうなるのか。それが気になって仕方ないという一種の心配が、ページを捲る手を急かします。楽しくはないのに読みたくなる、ある意味非常にスリリングな作品でした。
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