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日々の便り

 

コーヒー哲学序説

不良品だったアンプの真空管も無事に新品に交換され、本日は久しぶりにレコードを聴きながらコーヒーを楽しんでいます。なんだかとても特別な事をしているような気分なのですけど、ちょっと前までこれが日常だったのですよね。せいぜい十数日ご無沙汰だっただけなのに、なんだかそれが遠い昔の事のようで。

ただ惜しむらくは、今飲んでいるコーヒーの豆は、正月前に買ったものであるという事。本当ならとっくに飲み終えている筈なのですけれど、まぁ事情が事情ですから仕方ありません。しかし、古くなったとは言っても、元が良い豆だけに香りは良いですね。これだって、コーヒーメーカーで淹れたものや缶コーヒーなんかに比べたら、充分に贅沢な一杯です。

ところでコーヒーと言えば、寺田寅彦の随筆の中に、コーヒーについて書いたものがあるのはご存知でしょうか。というわけで、本日はこの作品をご紹介したいと思います。

○コーヒー哲学序説
著者:寺田寅彦
初出:1933年(経済往来)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2479.html
※リンクは青空文庫です

自分とコーヒーについて徒然と語った作品。寺田寅彦は大の甘党として知られていますが、一方で、大のコーヒー好きでもあったようです。彼が初めてコーヒーに触れたのは、彼がまだ推さない子供の頃であったそうです。といってもコーヒーそのものを飲まされた訳ではなく、牛乳の臭み消しとして用いられたコーヒーに、すっかり夢中になってしまったのだとか。

当時は牛乳はまだ一般的な飲み物ではなく、滋養強壮のための薬として用いられていました。しかし、そもそも乳製品などない時代にあの独特の匂いを嗅がされたなら、どうでしょう。恐らく気分が悪くなるのではないでしょうか。実際、寅彦にとっても牛乳は少々抵抗のある飲み物だったといいます。医師はそんな寅彦のために、少量のコーヒーで臭みを消してくれたのでした。

とはいえ当時コーヒーは貴重品でしたから、そうお目にかかる事はありません。彼が再びコーヒーに触れるのは、ドイツに留学してからの事になります。

寅彦が下宿したのはベルリンでした。当時から、ドイツと言えばコーヒーの美味しい場所であったようですね。先日私もドイツのコーヒーをお土産に頂きましたが、なるほど確かに質の良いものでした。寅彦は、毎日下宿の窓から朝の街を見下ろしつつ、香ばしいコーヒーをすするのが日課であったと書いています。また、夕方の講義を聴く前に、カフェでコーヒーを飲んだりもしていたようですね。

彼はドイツ以外にも各地を旅行したようで、各地のコーヒーについても色々と書いています。例えば、ロシアのコーヒーは美味かったが、イギリスのコーヒーは大抵まずかったとか・・・こんなところにまで飯マズ伝説が(笑

それ以降の寅彦は、日本でもコーヒーを嗜んでいたようです。とはいっても、日本のコーヒーもなかなかまともなものは少なくて、酷いものだと汁粉のような味だったと言いますから想像もできませんね。一体全体どんな淹れ方をしたらそんなことになるのでしょう。恐らく、煎りの段階で相当やらかしているのだろうとは思いますが。そんなわけで彼が好んだのは、銀座の風月というお店でした。

彼はいわゆるコーヒー通ではなかったそうです。もちろん美味しいコーヒーは沢山飲んできたのですから、それなりに好みのハードルは高かったのでしょうけれど、どちらかといえば環境を含めた、コーヒーを飲むという一連の行為を嗜好として楽しんでいたようです。そのため、店の調度品や雰囲気などといった部分には色々と拘りがあったようですね。

つまり彼にとってコーヒーを飲むという事は、味覚のための行為というよりは、むしろ精神のための行為であったというわけです。精神を刺激し朗らかにするコーヒーの効果は、少なからず彼の仕事の助けにもなっていたのだとか。彼はその人を酔わせ、活動の原動力となる効果を宗教や哲学、芸術などに準え、次のように述べました。

“そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくも自身にとっては下手な芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである。”

故にこの作品のタイトルには「コーヒー哲学」とあるわけです。もっともそれは哲学と呼ぶにはあまりに安価な代物ではありますけれども、そう馬鹿にしたものでもないでしょう。というのも、コーヒーには宗教ほど破滅的な影響力は無いからです。寅彦はそれについて痛烈な皮肉を述べた後、次のように話を締めくくっています。

“コーヒー漫筆がついついコーヒー哲学序説のようなものになってしまった。これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない。”

思わずにやりと笑ってしまう上手さですね。コーヒーにまつわるとりとめもない思い出話から、最期はちくりと皮肉を一刺し。そして自ら展開した終盤の話題に絡めて、ちょっとしたジョークで締めくくるこの上手さには脱帽です。100年以上前の情緒溢れるコーヒー談義としては勿論、寺田寅彦ならではのウィットが効いた、ちょっと知的な読み物としても楽しめる作品でした。

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