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日々の便り

 

イタリア人

相変わらず熱は下がりません。そして当然ですが、会社には行かなければなりません。べつだんお金に困っているわけでもないですし、有給がない訳でもないのですが、大勢でやっている仕事というのは日程の自由が利きませんからね。特にこのところ、海外からの問い合わせ対応を担当でもないのにやっているものですから、毎日なにがしかの問い合わせの回答期限があるため、休むに休めないのです。

ところで、外人というと、やはり国ごとにイメージがありますよね。例えばインド人は大らかで大雑把だとか、ドイツ人は真面目で神経質だとか、イタリア人はお洒落だとか。こういったステレオタイプというのは最大公約数としては概ね正解なのですけれど、個人個人に必ずしも当てはまるかというと、そうでもないようです。寺田寅彦が書いたあるイタリア人もまた、こちら側の事例といえるでしょう。

○イタリア人
著者:寺田寅彦
初出:1908年(ホトトギス)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card24429.html
※リンクは青空文庫です

寺田寅彦の友人の下宿の隣に住んでいた、あるイタリア人についての思い出話。初出が1908年ですから、これはまだ漱石が生きている頃の作品ですね。後年の作品と比べて文体が若々しいように感じるのは、恐らく気のせいではないでしょう。そしてどこか、漱石の作品にも似た寂れた雰囲気を感じます。もしかすると、これは明治の匂いなのかも知れません。

お話は、寅彦の日常風景から、次のように始まります。

“今日七軒町まで用達しに出掛けた帰りに久し振りで根津の藍染町を通った。親友の黒田が先年まで下宿していた荒物屋の前を通った時、二階の欄干に青い汚れた毛布が干してあって、障子の少し開いた中に皺くちゃに吊した袴が見えていた。”

こんな風に、何気ない記述の中に現れる生活感が良いのですよね。これは漱石の作品にも共通した特徴ですが、あえて風景を作るのではなくて、当時当たり前にあった下町の風景がてらいなく写実的に描写されているので、読んでいて風景が浮かんで来るようなのです。

ところで、寅彦が出掛けた七軒町というのは、恐らくは下谷区池之端七軒町でしょう。浅草にも七軒町はあるのですが、徒歩で行ったとなると本郷から浅草はちょっと遠いように思います。それに、下谷区は漱石や寅彦の作品に度々登場する地名ですしね。そして、そこから戻った寅彦は、本郷区根津藍染町で友人のかつての下宿前を通ったのでした。

寅彦はまず、その荒物屋(今でいう生活雑貨のお店)の二階の様子や、その窓から眺めた景色、そして友人の黒田の事を思い出します。貧乏学生で苦労人だった黒田と、坊っちゃんとして育ち、さほど苦労も知らなかった寅彦のコンビは、どこか「野分」の2人組を思わせますね。寅彦は当時の二人の会話を回想するうち、よく話の種になっていたイタリア人のことを思い出しました。

そのイタリア人は黒田の下宿の裏の粗末な家に住んでいて、日本人の奥さんと子供を持っていたのだそうです。当時日本にいた外国人は招かれて来た人が多かったようで、大抵の場合はそれなりにまっとうな暮らしをしていたものですが、このイタリア人は違いました。といっても、給料が安かったのではないのだそうです。

彼は多くの外国人と同様に良い給料を貰って居たにも関わらず、お金を貯めるためにあえて貧乏暮らしをするという、ちょっと変わった人物でした。その倹約ぶりは些か度を過ごしているようで、たった五厘をケチるために隣の下谷区まで石油缶をぶら下げて買いに行ったり、八百屋を相手に値切り倒したり。そんな彼は、当時の寅彦の目には次のように写っていました。

“このイタリア人は暗い黄泉の闇に荒金を掘っている亡者か何かのように思われた。とにかく一種侮蔑の念を抑える訳に行かなかった。”

なにしろ当時の寅彦達は、明確な目的を定められないまま様々な刺激を求める事を「青春の贅沢」などと称して、「浮き世の匂い」を嗅いで回っていたくらいでしたから。そんな彼等の目には、そのイタリア人の様子が哀れなものに見えたのも無理からぬ事でしょう。

しかし気楽な身の上ではなくなり、所帯を持ち、喰うために稼がなければならない身の上になった今の寅彦は、あのイタリア人の姿に自分を重ねたのでした。思い立って黒田に宛てて書いた葉書の中で、寅彦はそんな自分が堕落したのか進歩したのか分からないと自嘲的に書いています。

しかしそんな心境の変化は、恐らく誰しも同じであった事でしょう。なにしろ現代でも、誰かを食べさせるために日々働くというのは、決してそれほど色彩豊かな体験ではありません。むしろせせこましくて、不自由で、余裕のない毎日を意味します。

それを読んだ黒田が微笑むであろうと結んだのはきっと、逸話が懐かしいというばかりではなく、互いに同じ境遇にあるもの同士だという意味もあったのではないでしょうか。学生から社会人へ、そして扶養家族持ちへという環境の変化を体験した方なら、きっとこの感覚はよく分かるでしょう。描かれているのは明治の社会ですが、現代人でも分かるほろ苦さがとても印象的な作品でした。
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