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日々の便り

 

猫の穴掘り

ストレートな表現がもてはやされる事が多い昨今ですが、書く側からしてみれば、赤裸々であればあるほどに何の技術も工夫も要らないものなのですよね。なぜなら赤裸裸などと呼ばれ持て囃される表現の大半は、赤裸裸というジャンルにカテゴライズされたお定まりのパターンに過ぎないからです。

一方で、表現をオブラートに包むというのは骨の折れる仕事です。単に言葉を濁すとか持って回った言い方をする程度なら簡単ですが、論旨をしっかりと書きつつ、それでいてぼかすというのは高度な技術を求められる事なのですね。今晩は、そんな高度な技術の光る作品をご紹介しましょう。

○猫の穴掘り
著者:寺田寅彦
初出:1934年(朝日新聞)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card42265.html
※リンクは青空文庫です

猫の穴掘りの様子から始めて、連想ゲームのように徒然と考えを綴った作品。この作品を読む上でポイントになるのは、その初出年。1934年よりは1933年に注目と言った方が分かり易いでしょうか。歴史に明るい方なら、この西暦を見ただけでほとんど全ての事情を察する事が出来るでしょう。しかし、答え合わせは後にとっておくとして、まずは内容から。

表題の通り、お話の冒頭に登場するのは、猫の穴掘りです。なんでも猫は用を足すとき、砂などの地面に穴を掘ってそこに腰を下ろすそうですね。寅彦によると、一旦腰を下ろしたものの出るものが出ないと、猫は別のところに穴を掘って同じ動作を繰り返したりするのだそうです。

彼はそんな猫の様子に、うまくいかない事を全て社会のせいと決めつける人間達を準えました。本当は自分に問題があるのに、まるで穴の方に問題があるかのように振る舞う猫の様子は、確かにそういった人達の態度と似ています。もっとも、彼等は猫のように可愛らしくはありませんけれど。

次いで寅彦は、寝ている間に腕が痺れたりする場合の例を挙げ、異常を感じている部分とその根本原因は、必ずしも同じ場所とは限らない事を指摘し、同時に次のようにも述べます。

“しかしこの病原を突きとめて適当な治療を加えることの出来るような教育者や為政者は古来稀である。”


この一文からも分かる通り、寅彦が問題にしていたのは、専ら社会の事でした。彼は当時社会に現れていた数々の問題の原因とされている事柄を挙げ、しかし根本原因はそう簡単ではないと指摘します。そして数ある問題の因子の中で重要なものとして挙げたのは、文明と科学の発達によって起こった、異質なもの同士の衝突とも言うべき急激な接触でした。

例えば熱鉄を氷片に近付ける場合のように、ゆっくりすれば良いところを急激に放り込んで爆発を起こす役目を担っているのが、急激に発達した乗り物や通信手段などといった文明の利器であるというのです。彼はそこから、そういった急激な接触の事例を次々に挙げて行きます。

次いで出てくる教育機関の話はまるで話題が移ったかのようにも見えますが、新旧世代の衝突と見ればこれもまたその事例と言えるでしょう。話題は新しいもの好きと「新し好き」の話になり、転じて新しく開通した地下鉄の話になり、やがてその乗客の様子の話になります。

寅彦が観察したところによると、ある区間では非常に汚らしい乗客が多いのに、その様子が上野辺りで一変するというのですね。これもまたひとつの衝突、異質同士の急激な接触の事例です。次いで結論へと続くワンクッションとして狂風の原因が異質な空気の接触、言い換えれば気層の不平であることを延べ、不平繋がりで「王様の耳はロバの耳」のエピソードを紹介し、次のように結びました。

“自分も何かしら書きたいことがあって筆を取ったはずであったが、思うことがなかなか思うように書けないので、途中で打切ってさて何遍となく行を改めて更に書出してみても、やはりうまく書けない。思うことの書けないのは世の中のせいかというような気もするが、これも猫の穴掘りと同様に実は自分の筆の通じが悪いせいかもしれないのである。”


恐らくこの部分こそ、寅彦の最も言いたかった事でしょう。というのはこの前年、1933年というのはあの小林多喜二が公安もとい特高の拷問で惨殺された年であり、この作品が著された1934年も、引き続き治安維持法により激しい言論統制の嵐が吹き荒れている最中であったからです。

この頃の日本は政府のみならず大衆も専ら主戦論の熱に浮かされた状態であり、体制に対して批判でも書こうものなら、市民による「不買運動」の標的にされて黙らされるというような世相でした。8月にはヒトラーがドイツの大統領に当選し、12月にはロシアでスターリンの「大粛正」が始まり・・・世界的に見ても、嵐の前夜とも言える時期だったと言えます。

そんな世界を前にして著されたのがこの作品であると理解すると、記された一つ一つの言葉の意味や重みも変わってくるというもの。何故猫の穴掘りなのか、何故異質なものの衝突の話なのか、そしてなぜ汽車や飛行機、電話や無線が熱鉄に氷を放り込み、水に濃硫酸を叩き込む役割を担っていると指摘されたのか。

それは一見して歴史事実を語った一般論のようでいて、実はもっと具体的な意味を持った鋭い指摘だったのではないでしょうか。いえ、いっそ指弾であったとも言えるでしょう。しかしそれは、ただ漫然と文字を追っているだけでは理解出来ないように。注意深い読者だけが、その意味に気付く事が出来るようになっているのです。

表面的には徒然と連想で話題を転換しているように見せかけて、実に見事に言葉を選び、最後は冒頭の話題に準えて本音を茶化してきれいに結ぶ。内容の意味深い事は言うに及ばず、その洗練された構成は素晴らしいとしか言いようがありません。寅彦一流の文章表現で当時の世相をちくりと刺した、名作と言うべき作品だと思います。
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